見聞きしたものに思いつきで意見を言うと、時に間違っていることがあります。…というか、個人の意見なんて間違いだらけです。
当然、誤りがあれば人から指摘されます。不特定多数の人が目にする情報であればなおさらです。
でも他人の反応を気にしすぎていると何も言えなくなってしまうので、あまり気にしないようにしています。
発言する前に調べる
あるテーマを元に話をするときは、自分の意見に妥当性があるか一瞬でも考えるようにしています。時間があれば、手元の資料だけでも確認したり。
例えば旅先で出会った珍妙なオブジェについて、脊髄反射で「だっさ!」って思ったとしても一応由来を調べてみます。もしかしたら意外な裏話が潜んでいるかも知れず、それによって話が弾む可能性があるからです。
脊髄反射でダサいと思うようなものは、だいたい他の人もダサいと考えています。つまんないものをつまんないと言っても情報量は限りなくゼロに近い。
仮につまんないことしか言わなかったにもかかわらず同行者のリアクションを取れたのなら、その対象物そのものが強烈なコンテンツ力を持ってたのでしょう。
誤った事実については速やかに修正する
これを拡張して、ブログやSNSに何か投稿することを考えます。
もし寄せられたコメントの中に事実誤認を指摘する声があれば、誤りを認め修正します。自分なりに調べた情報よりも、相手の意見に妥当性があることは往々にしてあるからです。
どちらの意見が妥当かを評価するには多少の慣れが必要ですが、関連情報との整合性を担保する十分な情報量を持っていれば正解は自ずと見えてくるはずです。そのためには日々謙虚に学び続ける必要があります。
誤りの根拠が示された意見は勉強になるし、とてもありがたいものです。
ブログなどの記事を後から書き換えるのは偽装と見る向きもありますが、誤った文章が永遠に公開され続ける方が害悪です。特に月間で6桁や7桁、あるいはそれ以上のアクセスがあるサイトなら尚更でしょう。
文学に校正が入るように、論文に査読が入るように、個人の調査力では補えない部分を不特定多数の読者に委ねるという考え方があっても良いと思うのです。
意味のない被リンクは無効
情報の書き換えを不正とみなす意見について、一昔前であれば「釣り記事を書いて大量のコメントを集め、後に別サイトへ作り替えて被リンクを生かす」という手法がありました。
しかし今は内容を大幅に書き換えれば、十日やそこらでサーチエンジンの評価が変わります。よほど悪質なデマゴーグを目指すのでない限り、質の良い情報を目指すほうが公衆の利益に叶うでしょう。
何重ものチェックが入るはずの新聞や書籍であっても、初版と重版で内容が異なることはあり得ます。
批評と人格否定を区別する
最終的に情報を良いものにしたい意志があるなら、実りある異義には誠実に対応したいものです。ネットの情報は玉石混淆と言われますが、泥の塊でも丁寧に磨けばそれなりに光ります。
論旨への批判と単なる口撃は明確に区別して、より良い方法を模索したい。
その意味で実のある議論に付き合ってくれる人は本当に貴重だし、自分もそのような指摘を心がけていきたいと思います。
おわりに
勉強不足から嘘を言ってしまうのは仕方がないのですが、はなからデマを飛ばして良い理由にはなりません。他人の意見に一切耳を貸さない人は本稿の対象外です。
もっとも、地道に意見を積み上げるという手法はあまり耳目を集めません。叩かれない代わりにバズることもほとんどないです。
名前を売るのが目的なら、口から出任せ言って叩かれ続けて涼しい顔してるのが一番手っ取り早いのでしょう。
ただ、そういう炎上体質な人を周囲の人が口汚く罵ってるのを見ると結構ライフが削れるんですよ。あの手の人はガン無視した方が収益が下がるみたいなシミュレーション結果ってどこかにないものでしょうか。
もーキラキラ系とか言われてもいいから、なるべく「この本良かったよ」とか「勉強するならここがオススメ」とか、そういう建設的な意見でデマが駆逐される穏やかな未来が来て欲しいと思うわけです。
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