中学生だった時のことだ。将来なりたいものについて聞かれたので「ミドリムシ」と書いて提出した。すると、職員室に呼び出されて「ふざけるな」と怒られた。
ふざけてなどいない。私は大真面目だ。
なんなら今だってミドリムシのことを敬愛している。
なりたい自分
こんな昔話を思い出したのには訳がある。ネットで七夕に関する愚痴を見たからだ。
なんでも投稿者の息子さんが七夕の短冊に「ドラゴンになりたい」と書いたところ、当たり障りのない内容に書き換えさせられたという。
件の投稿者は「君がドラゴンになる方を応援するよ」と結んでおり、私も概ね同意見だ。もっとも「もし魔王の側につくつもりならよく考え直してほしい」くらいのお節介は言ってしまうかも知れない。
騎士とドラゴン
宿敵だけど噛み合わない一人と一匹の話 |
顧客が本当に求めていたもの
ところで、「顧客が本当に求めていたもの」というビジネス風刺がある。
顧客の要求仕様を完璧に実装しても、顧客満足度に直結するとは限らない(…というかむしろ不満が残ることが多い)というビジネスあるあるのことだ。
たとえば大病を抱える患者の「治りますかね」には、文字通りの意味の他に「闘病中の生活費どうしよう」「子供の面倒は誰が見るんだ」といった別の意味が隠れている場合がある。
「生存率は高いから大丈夫だよ」よりも、「請求可能な補助金一覧」とか「家事代行の実例あれこれ」のほうが相手を安心させてあげられるかも知れない…というような話だ。
ミドリムシの叫び
ひるがえってミドリムシの話に戻ろう。
今でこそミドリムシは栄養価の高い健康食品として注目を浴びるようになったが、当時ミドリムシはミドリムシ以外の何物でもなかった。正確に言うと全てのミドリムシが健康食品になりうる訳ではなく、人類にとって利用価値の高いミドリムシはごく一部らしいが。
担任にとって、教え子の「ミドリムシになりたい」はただの悪ふざけに映ったのだろう。しかし私にとって「光合成が出来る上に動けるミドリムシ」とは、動物と植物の垣根を悠々と打ち砕く魅力的な存在である。昔から私はこの手の白黒をあやふやにするトリックスターに弱い。
私とて進路調査票ならもう少し社会性があるようなことを書くが、確かこれは卒業文集かなにかの予稿だったのだ。お遊びの延長みたいな調査で頭ごなしに怒鳴られる義理などない。分かりやすく面倒臭い生徒だった私は「ミドリムシが如何に常識に囚われないことを示すアイコンとして優れているか」を熱弁したのだが、ついぞ判ってもらうことはなかった。
私の「ミドリムシになりたい」は「雑なカテゴライズをするな」という魂の叫びである。
「男だからとか女だからじゃなく個人の問題」「文系とか理系とか分けることに意味はない」「運動部出身者が全員スポ根だと思わないで」「結婚とか子供の有無とかいま関係ないし」「肩書きで態度変えるんじゃねぇよ」
ミドリムシの葛藤は今も続く。
そんな私は少年がドラゴンに夢想することを諦めないで欲しいと願っているし、誰かの心に棲み続ける何かが火を噴く瞬間を待っている。
「なりたい職業」よりも「なりたい自分」の方が、その人の本質に迫っていると思うのだがどうだろう。もしその理由を聞いてキラキラとした瞳で語り出すなら、それは確かにその人にとっての真実なのだ。
果たしてあなたは、かつて自分にどんな誓いを立てただろうか。
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