「マイナスイオンなんて嘘だ」と断言できない全ての人へ

非科学的なことが大嫌い!…というメーカー勤務の青年がマイナスイオンドライヤーの企画部署に配属されて騒動を起こす小説『賢者の石、売ります(朱野帰子)』の勝手レビューです。

「マイナスイオンなんて嘘だ」と断言できない全ての人へ

「おちさん、一緒にお買い物に行って食事でもしませんか?」

小説家の朱野帰子先生から、そのような主旨で誘われたのは2年ほど前のことだったと思う。

「今度ね、エセ科学と闘う人の話を書こうと思うんですよ。マイナスイオンドライヤーなんて全部嘘!…みたいな」

すました顔で冷えたグラスを傾ける彼女に向かって、私は「へぇ」と曖昧な返事をするのがやっとだった。

困惑したのには理由がある。

そもそもプロの作家が顔見知り程度の素人に新作のあらましを喋るという状況が謎なのだけど、よりによってエセ科学批判って…。

一般に、この問題は非常にデリケートなテーマとして知られている。科学を装うデマに苦言を述べて擁護派からの激しい攻撃に遭っている人なら、これまでに何十人と見てきた。

あの手のやりとりは端から見ているだけでも疲労する、科学者って大変だねと、朱野先生ご自身が言ってたではないか。本当に大丈夫なのか。人知れず心配する私をよそに、物語はふわりと世に放たれた。

その連載が着々と回を重ね、とうとう一冊の本にまとまるという。気になる。

正論を振りかざす主人公

実を言うと、作品の冒頭は単行本を手にする前からWebで試し読みをしていた。

科学に心酔している主人公、賢児。無知でスピリチュアルな姉を日頃から疎ましく思っている。彼は他人の気持ちに寄り添わない。そのうえ正論を正義のもとに振りかざす。当然、周囲からは鼻つまみ者として扱われている。

公開された10ページ足らずの導入部から読み取れる賢児の人物像は、あのとき聞いたプロットそのものだった。

困ったな。やっぱコイツ嫌いなタイプだ。馬鹿だと思う相手のことなど放っておけば良いのに、なぜ積極的に干渉しようとするのだろう。主人公に全く感情移入できない。

理性 vs 本能

一体これは誰に読まれるべき話なのだろう。

高額なサプリメントを見て真っ先に飛びつくような人だろうか。それとも、そんな光景を見て烈火のごとく怒る人?

理性を頼りに動く賢児と、フィーリングに従って軽率な行動に走る姉。二人は非常に対照的な存在として描かれている。

私も機械的で人間味がないとよく言われる。後先を考えないタイプが苦手なのも同じだ。しかしあまりに賢児が高圧的なので、どちらかというと姉に肩入れしながら読んでいた。

賢児の姉は、妊娠中のママ友から伝え聞く根拠のない噂話に感化されて現代医療に背を向ける。理詰めで考えたら間違いなく頭痛の種となる行動を取るのだけど、彼女には彼女なりの信念がある。お腹の子を守ろうとする悲痛なまでの母性だ。

その実直な姿を思うと、賢児と一緒になって非合理だと怒鳴り散らす気にはなれなかった。

理想と現実

常に合理性を優先する賢児だったが、そのスタイルは仕事をするうえで邪魔になることも多い。

個人として全く支持できない商材を売らなければならない煩悶は、多かれ少なかれ誰のもとにも訪れる。電器メーカー勤務の賢児にとって、それはマイナスイオンドライヤーという形をしていた。

いわゆるヒーリング効果を謳ったマイナスイオンというのは想像上の産物だ。少なくとも科学的には何を指しているのかさえ定かではない。存在があやふやなものを完全否定することは不可能なので、「ない」と断言することもできない。事実上の効用はほとんどゼロなんだけど。

科学的に評価しえない商品は誠実性に欠けると賢児はいう。だが、企業人として果たしてそれは「正しい態度」なのかどうか。

このあたりから、朱野作品ならではの「お仕事小説モード」に突入していく。市場調査に基づく商品開発のあり方とマーケティング論。さまざまな要求が交錯する中で自分の企画を通すには他の関係者をねじ伏せなければならない。

私個人としては彼の主張に賛成だ。でも、仕事相手としては評価しない。私が同僚だとしても、決して彼の側にはつかないだろう。マイナスイオンに効果があるなんて思っちゃいないが、彼の手法は支持できない。筋が悪い。目的が同じというだけで手を組むのは危険だ。

妥協点

主要人物がそれぞれに悩み、互いの主張に理解を示し、大団円とは言えないなりに落としどころが見つかるかと思ったのは、物話も終盤にさしかかった頃だった。

この期に及んで「いくら何でもこの線はないだろう」と恐れていた爆弾発言が火を噴いた。

その幼稚な態度に「お前ほんとバカじゃねぇの!?」と思わず本を投げつけかけて我に返る。

この時点でのページ数は、残り1割をとうに切っていた。ここから考えを改めて軟着陸に向かうとは思えない。結局こいつは性根が腐ったままで終わってしまうんだ。あぁ、腹立たしい。

…と思ったのも束の間、そこからほんの十ページほどであっさり収拾がついてしまった。まさか。あまりの急展開に口が半開きになる。だけど人の気持ちの変化なんて案外そんなものなのかもしれない。

ちょっと感じたことのない、不思議な読後感だった。

エピローグ

休み明け、職場の上司と目が合った。

「朱野さんの新刊、どうだった?
「うーん。主人公に癖があるので読み手を選ぶかも。…でも良かったですよ。最後はちゃんと救いがあって。クライマックスの描写でムカついて本を床にたたきつけそうになったけど
「だったら『でも』じゃなくて『すごく』でしょう?普通はそこまで熱くなれないわけだし
「…あ。

この本は、一体誰に読まれるべきだろう。物語を目で追いながら、頭の片隅でずっとそのことを考え続けていた。

科学にしろデマにしろ宗教にしろ、疑いもなく信じる道をゆく人にこの本を見せたところで、おそらく何も届かない。曲解していいように使われるのがオチだ。

だけど、理性と感情のはざまで悩んでしまう人には?きっと何かしらの指針になりそうだ。少なくとも私には思うところが多かった。

マイナスイオンにしろパワーストーンにしろ、効能の是非を事細かに説明できる人はそう多くない。これは、対立する相手を屈服させようと「しない」人のための物語なのだ。

なるほど。殴ってないんだからカウンターだって飛んで来ないよな。すました顔の理由に納得をして、私は本を棚に収めた。

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追記:おまけ

ネタバレは、とりあえず非公式公認の許容範囲ということでよろしくどうぞ…。(;・`д・´)

性格に関しては「批評と人格否定をごっちゃにする人」ってのがいて、その界隈に行くと冷徹とか言われるんですよ。