燃えさかる建物に閉じ込められました ドアは開きません

絶体絶命の危機に瀕したときに、パニックを起こさないためにしたいこと。

燃えさかる建物に閉じ込められました ドアは開きません

5才くらいの頃ダンプに轢かれそうになったことがあって、それ以来「いまここで非常事態が起きたらどうするべきか」確認する癖がついています。

ちょっとした神経症と言えばそれまでなんですけど、柄の悪い連中にとり囲まれたり、目の前でクラスメイトが突然バタバタ倒れたり、事故に遭って自分の住所氏名さえ言えなくなったときも特に慌てることがなかったので、それなりの役には立ってるんでしょう。

一昨年の地震の後、震度5弱を経験した知人の保育士さんに当時の様子を聞いたところ「子ども達が一斉に訓練通りの行動を取って感動した」と言っていました。その園では毎月防災訓練をしているのだそうです。

日ごろの訓練って大切ですね。

燃えさかる建物から脱出するには

火災現場に閉じ込められたら

開口部は大抵構造物で囲まれているから頑丈なんですけど、壁は場合によっては単なる石膏だったりするので叩いて軽い音がするようなら試す価値はありますよね。

ダメなら上のダクトとか。

ただ、スイッチやコンセントに近い部分は配線が通ってて感電の危険もあるので細心の注意が必要です。

知識で身を守る

死に瀕して走馬燈のように記憶が蘇るのは、「これまでの記憶のストックで使える知識がないかどうか探しているから」という説があります。

絶体絶命の危機に陥ったとき、身を助けるのはそれまでに培った知識なのでしょう。

たとえフィクションから得た知識でも、実感に即して理解することである種の経験になり得る。

ありえないような状況に置かれたときでもパニックに陥らないようにすること。それは「この状況を知っている」という足場がどれだけ広いかによるのだと思います。自分の縄張りであること、安心感と読み替えても良いかもしれません。

防災訓練に全力で臨むこと

よく緊急時には一瞬の判断が生死を分けるなどと言いますが、全くその通りだと思います。

学校や職場の避難訓練も、義務としてのタスクだと捉えるか危機意識を持ってのぞむかで見えてくるものが全く違いますし。

子供の頃は訓練の大事さが今ひとつ判ってなくてバカにしてましたが、そう考えてみると毎日の暮らしも日々訓練することばかりですね。

「もしも今この瞬間に地震が起きたら」とか「あの角の向こうに強盗がいたら」みたいな癖を付けるだけで自分に足りないものが見えてくるような気がします。

妄想と紙一重ですけど。

おわりに

さて、9月11日が終わろうとしています。

12年前のちょうど今頃、食い入るように見ていたテレビの向こうの世界はとても澄んだ青い空が広がっていました。その空の下にいる知人の無事を、ただ祈ることしか出来なかった当時の私。

あのときの祈りが何かの役に立ったかどうか、今だによく判りません。

あるいは、2年半前も。