論理的思考や科学的思考を鍛えた人は弱い

論理的思考とは、複雑な事象の構造を整理して他者と共有できるように再構築する技術です。ビジネス用語としての「ロジカル・シンキング」との違いについても書きました。

論理的思考や科学的思考を鍛えた人は弱い

論理的思考とは何か。

事象を観察して傾向を見いだし、仮説を立てて検証すること。また、そうして得られた発見を構造化して他人に判りやすく伝えること。

前半部分は「科学的思考」と読み替えても良いと思う。とかく「科学」というと理工系ジャンルの話に限定して受け止められることが多いけれど、もともと「科学」には「体系的な知識」くらいの意味しかない。

そして「ロジカルシンキングを鍛えて仕事に強くなる」といった見出しを眺めるにつけ思うのは、論理的思考力を身につけたところで別に商談に強くなるわけではない、ということだ。むしろ物事を分析的に捉えて論理的に考えられる人は交渉術に弱い。

論理的思考力とプレゼン能力の混同

論理的であることとプレゼン能力の高さをごっちゃにするのは、割と良くある誤解だと思う。実際に論理的な人は的確なプレゼンテーションをすることが多いし、二つの能力は完全に切り離せるものではない。

だが魅力的なプレゼンテーションをする人が必ずしも論理的かというと、それは違う。複雑に絡み合った問題を都合良く切り貼りし、熱っぽく語ることで場の空気を持って行く人がこれに相当する。端的に言うと詐欺師だ。

これはどちらかというとコミュニケーション能力の問題で、話の構造自体は三段論法とさえ呼べないお粗末な理論であることも多い。正確に言うと、論理性の効能を十分理解した上で悪用している。

論理的思考とロジカルシンキング

こんにち「論理的思考」と言うと、ビジネスツールとしての「ロジカル・シンキング」を指すことも増えた。

「ロジカル・シンキング」に代表されるのは、「ピラミッド構造」や「MECE」(ミーシー)というキーワードだ。MECEとは、「Mutually Exclusive, Collectively Exhaustive(相互排他的な、余すところのない集団)」の頭文字を言う。「漏れなく、ダブりなく」などと訳される。

物事の構成要素を「漏れなく、ダブりなく」分解すると、ターゲットとなるペルソナや利用シーンが具体的に想像しやすくなる。同時に「ピラミッド構造」と呼ばれるトーナメント表のような裾広がりのチャートを使って全体の構造を関連づけていく。

つまり、要素と関係を書き出すことでおのずと問題点が浮き彫りになると言う発想術である。確かにこれらは論理的思考を支える重要なチェックサムだが、その中でも抜かりなく伝える際のテクニックに近い。

「論理的思考」「ロジカル・シンキング」「ディベート能力」辺りのキーワードを、「ヘリクツ」と同義の胡散臭いキーワードとして扱う人がいるのはこのあたりの流れによるものだろう。

もちろん極めて論理的に、かつ魅力に溢れたプレゼンテーションをする人も存在する。

論理的思考は決断力を落とす

論理的な行動には、「事象を観察・分析」する段階と「法則を実用」する段階に分けられる。

ここで、既知の問題に出会ったときの対処は早い。既に自分の中でやるべきことが決まっているからだ。論理的で決断が早い人は悩みが少ないのではなく、誰よりも先に悩んだ人である。

だが初めて直面する問題についてはどうだろう。今起きてることの現状把握を試みた時点で、少なくとも即断は出来なくなる。場合によっては一般性を求めて二つ三つと類似の事例を探し始めたりする。「思考」とは立ち止まることだ。

考えなければならない局面というのは大体なんらかの選択を迫られている状態なので、ここでダラダラ悩んでいると機を逃しかねない。論理性は意志決定の正確さを底上げするが、速さに関しては必ずしも保証しない。

意志決定を急ぎたいなら、根拠レスにジンクスを信じるのが一番早い。極論を言えば、ダンゴムシのように「壁に突き当たったら左右交互に曲がる」と最初に決めておけば悩まずに済む。罠にはまることも多いが、運が良ければ生き延びる。

ジンクスとは、成功体験から抽出したフレーバーのようなものと言い換えても良い。実態がないわりに高揚感を誘う。

ところで、優れて論理的な人が「考えても判らないからこれ」と適当な選択をすることがある。「間違えたときのデメリット」と「意志決定の遅れによって生じるデメリット」を天秤にかけて即決することを選んのだと思えば極めて合理性の高い行動と言える。

一方、自分の優柔不断さを省みるにつけダンゴムシに劣ると認めざるを得ない。今日からダンゴムシ先輩と呼ぼうと思う。

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論理的に相手の気持ちを思いやれる

論理性を身につけることによって主張が異なる相手の立場を理解し、ときに共感することが可能になる。

論理的な人間は冷徹で、感情に左右されずズバズバ言うと思われている節があるが、「感情を表に出さないこと」と「感情の有無」は別の話だ。

普通、人は物事を好きか嫌いかで判断する。場合によっては嫌いなものを積極的に排除する。

それに対し、「排除する明確な合理性」がなければ嫌いでも排除しないという考え方がある。嫌だが認める。これは、非常に不自然な行動様式である。

立場の違う人間の気持ちを理解出来る。つまり押しが弱くなる。ビジネスマンとして極めて致命的な欠陥が身につくことになるだろう。

論理的思考術で人心掌握なんてのは妄言に近く、現実は華麗なるゴリ押し勢の独壇場だ。吹けば飛ぶような線の細いインテリよりも、オレオレマッチョマンが上座につくのは世の常である。

科学と論理は集団全体の生存確率を上げる

ここまで論理的思考のデメリットばかりを挙げてきたが、もちろん生きていくうえで大切な資質の一つに違いない。

例えば、狩猟時代に戻って皆で狩りに行くことを考えよう。森に入ったところ出会い頭に猛獣と遭遇した。さて、どうする?

生きて帰るなら逃げるか闘うかの二択だ。死闘の末に猛獣を仕留めて帰ってくれば英雄として迎えられるだろう。しかし実をいうとそれは下策である。

そもそも、森に入った時点で猛獣の予兆を察知すべきだった。足跡、食痕、獣道の観察で遭遇の確率は大幅に下げられる。うまく先回り出来れば効率的に仕留められる。技術で補えば、体力が劣る者でも狩りの経験を積める。

科学は集落全体の生存確率を上げる方に働く。

嫌いなものも認める合理性

例えば猛毒を持つヘビにしたって、毒矢にすれば狩猟の道具として利用できるだろう。危険だからといって片っ端から殲滅して回ったら補食されてたはずのネズミが増えて貯蔵した穀物を根こそぎ食い尽くされるかも知れない。

なによりこうした知恵が必要なのは、数ある生物の中でヒトが圧倒的に弱いことの証左だろう。

個としてのヒトは動物界の中で圧倒的に弱い

自分の膝丈程度の野犬に襲われてさえ簡単に死んでしまうヒトが、これほどまでに繁栄を遂げたのは知性と社会性を兼ね備えたからだと言う。

だとすれば、複雑な事象を他者に判りやすく伝えたり本能を理性で律することをしない人は群れをなさぬ力の強い人なのだろう。きっと腕一つでたくましく荒野を生き抜くことが出来るのだ。

その意味で、言葉巧みに搾取したり実害もない相手に向かって口汚く罵る行為を論理と呼んではいけない

真に磨かれたロジックは、飛んできたことに気付かないほど柔らかな力で深く射抜くから怖いのだ。